ゆく春



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散り始めると早い桜も新1年生のういういしい登校姿も
風景になり始めるともう次の季節に変わる
うつろいやすい天候に翻弄されながら
ご逝去や異動のしらせをきく

何が不安で何がホッとするか
うつってしばらくは振り回されてもやがて忘れて
それでいいともおもえるけど
そんなんでいいのかともおもう

慣れたかと聞かれればなんとなくそうだと答えられる
おそらく職種的にそこそこあっているのだとおもう
分野と云うべきか どうしても
営業とか企画とか経理とか庶務とか
関わらずに済まないけれど
ニガテはニガテとしてそれなりにやるが

50代を意識するのは
若手の人の足手まといにならないようにとともに
自分が過ごしてきた年代別のあるあるに
ひとつひとつ答えをはめてくみたいな部分もあるなあ

できない自分を
さげもせずあげもせずまんまの高さで示すと云うか
気配とかもうどうでもいいし空気よんでもよまなくても
時間かけるのはそういうことじゃない

結局品のいいひとがすき
経験値をつむと そこなわれがちだから
気をつけていたい
お金ないことより
謙虚じゃないことを憂うようでありたい

課題ですよ常に




しかし咳とまんねえな痰もからむし
これだから年寄りってやっかいだぜ
膏薬はるか











・早生(わせ)と晩稲(おくて)ということばがあって、
 つまりは、早熟と晩熟ということなのですが、
 幼いころから、ぼくはどう考えても晩稲でした。
 いちいち説明もいたしませんが、何度も、
 じぶんは晩稲だと悟らされることがありました。 
 しかし、若いときに晩稲はなかなかつらいものです。
 早生の人たちが、先にできるようになっていることを、
 「まだできない」ところにいるのですから、
 追いついていくのが大変なのです。
 晩熟組の人なら、そのへん共感すると思いますけどね。
  
 こういう晩稲のぼくが、50歳くらいのときに、
 知り合いの知り合いというくらいの方から、
 えらく本格的な占いをしてもらったことがあるのです。
 ご好意で、丁寧に図面までつくってくださってくれた。
 いろんなことが予言されていたようにも思うのですが、
 細かいところはほとんど目に入りませんでした。
 だって、ぼくは「とんでもない凶運」の真っ最中にいる。
 ということが示されていたのですから。
 ぼくの知っていたことばで言えば「大殺界」みたいな、
 なにをやってもダメダメというどん底である、と。
 仮にそれを受け入れたとして、いつまで続くんですか?
 という問いに対しては、「とにかく長い」と。
 60くらいから少しだけましになって、明けるのは65歳。
 そりゃぁ、あまりに長すぎるだろうとあきれましたが、
 やがては、その「とんでもない凶運」というものが、
 どんなものなのか味わってみようじゃないの、とね。
 いっそもう開き直ることにしたのです。

 そこからは、もうなんでも平気でしたね。
 「とんでもない凶運」なのにこの程度なのかと思えば、
 ここから抜けたらどれくらい調子よくなっちゃうの?
 ぐらいのことを、思えるようになったわけです。
 そして、15年くらい経って、やっと65歳になって、
 凶運から抜け出したはずなのですが、どうでしょうねー。
 ふつうだったら定年退職後の65歳に、
 やっと「とんでもない凶運」から抜け出られたとしても、
 もう遅すぎるんじゃないかとも思いますよね、ふつうは。
 でも、幸いなことに、ぼくは自他共に認める晩稲なので、
 そこからがんばれるんじゃないかなぁと思ったのよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
でも、忘れちゃいけない「安全第一、おもしろ第二」を。





・東京にいても、京都に来ても、
 犬の思い出でいっぱいです。
 この場所では、こんなことしたっけ。
 こんな季節には、こういうことしていた。
 こんな表情で、こんな格好をしていた。
 家の近所で歩ける道は、ほとんど犬と歩いた道です。
 どの場所を、どんなふうに歩いたかよく憶えています。
 いやいや、悲しいこととして言っているのではないです。
 もらった思い出の数や量に感心しているのです。

 たくさんの思い出をくれました、と書いて、
 「思い出をくれる」ということばについて考えました。
 ブイヨンという犬は、たくさんの思い出をくれた。
 そのことを、ぼくはほんとうにうれしく感じています。
 犬じゃなくても、こういうことはありますよね。
 人間にも、そういう人はいます。
 家族のように近くにいる人については、
 もちろん、そんな「思い出をくれる人」になりやすい。
 でも、家族だけれど思い出が少ないということだって、
 ないわけではなさそうです。
 歌手だとかタレントだとかが、
 たくさんの思い出をくれるということはあります。
 生きてきたさまざまな場面が、
 好きなだれかの歌に彩られていたということだとか、
 ある人に知りあってから起こった出来事が、
 ひとつひとつ大事な思い出になっているだとか、
 いろんなケースがあるように思います。
 ぼく自身にも、遠くにいて会ったこともないのに
 たくさんの「思い出をくれた人」がいます。
 それは、ビートルズです。
 勇気をもらったとか励まされたとかではなくて、
 たくさんの「思い出をもらった」という気がしています。

 理不尽に怒った人だとか、だました人だとかも、
 ネガティブな意味で「思い出をくれた人」でしょうかね。
 あ、失恋させてくれた人なんてのも、
 思い出をくれた人ですね。
 そんなことを考えていて、それにしても、と思うのです。
 うちのブイヨンっていう犬は、人間のだれにも増して、
 ものすごくいっぱいの「思い出をくれた」なぁ、と。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
犬や猫といる人、たくさん思い出をもらってくださいね。


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by saku-saku-chika | 2018-04-14 11:55 | つぶやき