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ファイト

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Photograph by rowland willis, National Geographic





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Photograph by Dipu Dutta, National Geographic









・人の考えが深いとかいうときには、
 たいてい「ことば」を持っていることが
 前提として語られる。
 考え深そうなことばを、人びとは取り上げて、
 「こういうことを言った」という物語をつくる。

 語らず、書き残さずという人は、
 昔はたくさんいたと思うのだ。
 そういう人のほうがほとんどだっただろう。
 語彙が増えるような日々が、そもそもない。

 よく書を読み、茶道を嗜み、花を活け、
 というような人が、考えを巡らせたということは、
 きっとあるだろうし、そういう人たちの
 考えが深いということもあるだろう。

 だが、逆に、書に触れたこともなく、
 茶ではなく水や白湯を飲み、野の花を眺めるだけで、
 考え深かった人がいないのだろうかとも思う。 
 いや、そもそも、考えは深くないといけないのか。
 という疑問もないではないが、それは措いておく。
 ことばでものを考えるということは、
 そういう方法を習った人の、ひとつのやり方だ。
 それを身につけていることで、
 都合のよいことはたくさんあるだろうし、
 そのおかげで人によろこばれることもできたりする。
 しかし、ことばを使ってなにかを伝えたり、
 ことばでものを考えたりするのは、
 人が生き、なにかを成すためのすべてではない。

 仏像の前に立ったとき、ぼくは、そう思う。
 人の姿に似せた仏や高僧の彫刻をつくった仏師たちが、
 仏教の経典を多く学んだとか、
 仏のこころに近づこうとしていたとか、
 そういうことでは、必ずしもないのではないか、と。
 なんとなく、そんな不埒なことを感じるのである。
 信心深さや、思慮深さと関係なく仏師は仏師だったので、
 仏師は仏像をつくる職能の人だったということで、
 まったくかまわないのではないだろうか。
 いまの時代なら仏師は劇画を描いているような気がする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
『運慶展』に行って、また別のことを思うかもしれないな。

by saku-saku-chika | 2017-10-27 10:10 | つぶやき