なんといいますか
2015年 05月 21日
Photograph by Robert Heil, Your Shot
どこにむかって くちをとがらせようとも
事態は変わらぬ わかってもいる
されば嘆く意外の事を
するのがよかろう
なぜにひとは
くらべてしまう生き物か
野生化が足りぬのだ恐らく
削いで疎意で素意で
いや理屈は無用
進めるべし
思考をはばむことなく
修正ありきで
時間が足りないよ
と
つい 言っちまうんだなあ
ま オノレの選んだみちなんで
しゃあないっすよε-(´・`)
おくれてやってきた五月病
だいぶしまいやんけ!
04月24日の「今日のダーリン」
・若いころ、コピーライターの講座でだったと思うけど、
「電車のなかで目の前にいる人たちのことを想像する。
どこから乗ってどこへ行くのか。
どういう職業で、さっきまでなにがあったのか」
というようなことを、勝手に考えることが、
いいコピーを書けるようになる練習だと教えられた。
これは、コピーライターになるためというより、
なにをする人にとっても、いい練習になると思う。
どこから、どこまでを想像できるか。
次々になにか気づいては、それに答えていく。
それを何度も何度もやっているうちに、
じぶんの想像(というか妄想かな)が、
あんがい凡庸であると気づいたり、
じぶんのこころに潜んでいる悪意のかたまりを発見する。
また、他の人が想像する「目の前にいるモデル」と、
じぶんの想像がまったくちがうことも知る。
どういう人が想像しやすいのか、なんてことも思うし、
「人はみんなちがう」ということについて疑ったり、
どういうことが同じなのか考えたくなる。
もともと無意識で、みんながやっていることを、
意識的にたくさんやることが、練習になるのだ。
想像を口に出さないかぎりは、迷惑もかからず、
いくら遊んでいても無料のゲームである。
いつのまにか、その練習はあんまりしなくなったけれど、
別の練習問題を解きたがるようになっていた。
いろんなモノをながめたり、さまざまな店に入って、
あるいはニュースや相談事を元にして、
「じぶんならどうするだろう」と考えるのだ。
もっと繁盛させるには、なにか惜しい部分をどうするか、
じぶんが批判している問題を
じぶんだったらどうすればよかったというのか、
日々の世間は練習問題だらけなのだ。
これは電車のなかの妄想よりもずっとむつかしい。
解決の第一段階くらいはシロウト考えで思いついても、
多少でも本気で考え続けたら、
実は次の段階の答えが出せなかったりする。
流行らない食堂のことひとつでも、
ほんとうに「よい道」を行かせるのは大変なことだ。
練習問題を次々に解こうとすることは、
じぶんの「あんがい情けないこと」を知ることになる。
いやいや、だからこそ、練習なのだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんのことだって、解決できる問題って少ないもんねぇ。
by saku-saku-chika
| 2015-05-21 21:21
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