死装束
2017年 03月 26日
・たとえば、である。
「昨日、とうちゃんが死んだ。
1年前にシロが死んだときのほうが悲しかった。」
と書いてあったとしたら、それは「詩のことば」である。
これが「社会のことば」であったとしたら、
とうちゃんが亡くなったことを、
悲しくないように言ってはいけないのである。
しかも、それを犬だか猫だかの死とくらべているのは、
ますますいけないことであろう。
世の中には「詩のことば」と「社会のことば」がある。
アクション映画で、悪いやつがタバコを吸っていて、
その吸い殻をそこらへんに投げ捨てる。
それは「詩のことば」で描かれたものである。
そして、クルマに乗って走り去るのだけれど、
もちろんシートベルトはしない。
この行為も「詩のことば」で語られているのだ。
でも、悪いやつだからといって、映画だからといって、
シートベルトをしないで運転するのはいけないからと、
その悪い男がシートベルトをするなら、それは、
「社会のことば」で語られたものになる。
「詩のことば」は、自由なのである。
ほんとうは、自由であるはずだけれど、
やや、そうでもないかもしれないという気もする。
だから、思うだけで発せられない「詩のことば」もある。
「ぼくらは自由だ」というのは、「詩のことば」だ。
「ぼくらは自由だ」という「社会のことば」もある。
「あいつを傷つけたい」という「詩のことば」もあるし、
「あいつを傷つけたい」という「社会のことば」もある。
泣きながら語られる「社会のことば」もあったりする。
冷静に、鬼のように語る「詩のことば」もある。
世界から、どんどん減っているのは「詩のことば」だ。
すべてが「社会のことば」であっても、世界は成立する。
だけれど「詩のことば」がなくなっていくと、
それは、ただ「世界」ではあるのだろうけれど、
「人間の世界」じゃなくなるようにも思う。
それはいやだな、人間だものな。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
詩の材料になるのは「沈黙」なのではないだろうかと思う。
by saku-saku-chika
| 2017-03-26 16:47
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