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支度中


子どもでいられる時間はそう長くない
若くてキビキビ動ける時間もあっという間だ
そういうことはたいてい
過ぎてからわかる
わかったから どうなん?というのが
おとなの時間

どういうふうに
しまっていくか はたまた
やりかけなりに
あとしまつ残った人々に
さらってもらえるか

ゆだねるって
けっこうな大仕事 でも
それ大事

いってきます

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・こどものとき、大人がかっこよく思えた理由のひとつは、
 「たいしたことないよ」という感じで、笑うことだった。
 こどもは、いつも、じぶんの小さい器のなかで、
 勇んだり、脅えたり、行き詰まったりしている。
 そういうときに、大人は、その問題について
 「はっはっはっはっは」と笑うのだ。
 笑うことそのものがかっこいいのだけれど、
 実際のところは、大人の「笑っていられる落ち着き」に、
 「幼いどうぶつ」として感じ入っていたのだと思う。
 つまりは、怖々と生きているじぶんにとって、
 「頼れる存在」であることを伝えてくれている。
 それが、「笑う大人」のイメージだったのだろう。
 
 その「頼れる存在」であることを演出するために、
 あえて笑う大人たちも存在していた。
 映画のなかで主役になる「正義の味方」はもちろん、
 その相手側の組織のボス役なども、
 なにかと言えば「はっはっはっはっは」と笑っていた。
 悪の軍団の子分たちも、高笑いする親分のことを、
 「頼れるよなぁ」とかね、よろこんでいたわけだね。
 そういえば、映画『となりのトトロ』のなかで、
 引っ越したばかりの家の風呂場で、怖がるこどもたちに
 むやみな爆笑をすすめる場面がある。
 ひ弱そうなおとうさんが、「頼れる存在」に見えた。
 
 ぼくの育った時代の大人は、曲がりなりにも、
 「頼れる存在」の役割を果たしていたのかもしれない。
 そして、こどもだったぼくは、
 それを「かっこいい」と感じていたのだろう。
 大人になるということには、そういう憧れがあった。
 怖かろうが切なかろうが、ちょっと見栄を張って、
 より弱いものの不安を掻き立てまいとする大人像。
 そのうえで、おちついて「どうするべきか」を考える。
 そういう大人に憧れて、へたくそなりに大人になった。
 
 長年、町内会のおじさん程度にでも、
 大人の役をやってるうちには、だんだん大人になる。
 無理に「頼れる存在」になろうとしなくても、
 わりと「はっはっは」と笑えるようにもなるものだ。
 怖がりのこども、不安な若者のままじゃいられないしね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あんまり笑ってばかりだと、ばかみたいに思われるけどね。






by saku-saku-chika | 2016-09-21 08:59 | つぶやき