なかば







はやいもので1年の真半分である
きょうは 自分に ああ 忙しかった という台詞を許す
でないと次いけない
人とくらべなくていい
いつだって誰だって自分至上だ

まとまった休みがとれない中で
半日もしくは帰宅してからの時間をつないで
ようやくラフ送信 するなかで
音入れ終わったよCDのジャケットに何か の急遽に応え
ギリッギリの時間に家を出て

予定していた花屋がなんと閉店(orz)
記憶をたぐって
たしか 先々週紫陽花のブーケがあそこに
と思い駐輪場に入れ直し
いくと今日は紫陽花はなくて
向日葵の元気な花束が目に留まり
もうこれしかねえと即買いして走る

いそいだわりには遅れて
もうお誕生日の席は始まっていたが
清潔な様子で身支度を整え点滴のない主がすわっていて
いちばんさいごにかけつけたじぶんにも
ちゃんと微笑んでくれて

急ぎ帰宅して
夕飯つくって風呂あらって選択もの乾かして
掃除機かけて 保留だった電話を1件入れて
今ここ

あしたのゆうはん仕度して
アイロンかけたら
きょうは寝よう早めに






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Photograph by Marja Schwartz, National Geographic










・テレビやネットの画面に向かって、
 そこに写っている人間を責めているときの
 「罪なき人たち」の勝ち誇ったような表情には、
 なんとも悲しいものがある。

 じぶんは傷つかない場所にいて、
 だれを笑おうが責め立てようがやり放題。
 そんな閻魔大王のような場所に立っていると知ったら、
 多少なりとも「こんなわたしが、お恥ずかしい」と、
 言いたくなるものだと思ったら、
 必ずしもそういうものでもないみたいで。
 「鬼よりお化けより怖いのは人間だ」という言い方は、
 そういうときにこそ当たっているように思う。
 人間のしてきたたくさんの残酷なことは、
 じぶんのしている善を疑わぬ人の手でなされた。
 
 「こんなわたしが、お恥ずかしい」という気持ちは、
 じぶんを否定しているわけではない。
 倫理として、あるいは生活の知恵として
 「謙虚にしていよう」ということでもない。
 「人を責めているじぶん」の写っている鏡が、
 なんとなく見えるということなんだと思う。
 おそらく、テレビで「罪なき人」になりきって
 人を責め立てていた人たちも、
 それをしているじぶんの顔を見たら、
 あらためて「恥ずかしい」と思うのではないかしらん。
 
 「恥ずかしい」は、なかなか扱いのむつかしい気持ちで、
 それにとらわれていると、なんにもできなくなる。
 だから「恥ずかしい」を上手に抑制できると、
 わりと行動的になれたりもするものだ。
 ぼく自身も、よいしょっとばかりにスイッチを押して、
 「恥ずかしい」をひっこめては、なにかしてきたと思う。
 しかし、「恥ずかしい」がなくなっているわけではない。
 なくならないようにと、気をつけているくらいだ。
 また、友人には「恥ずかしい」のある人を
 できるだけ選んできたような気がする。
 そういう人たちは、「じぶんは傷つかない場所にいて、
 人を笑ったり責め立てたりする」ようなことはしない。
 そして、言えないことについては、多くを語らない。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それはそうと『ドコノコ』の細長いチラシ配り募集中です。
 

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by saku-saku-chika | 2016-06-15 19:22 | つぶやき

日常 @イラストレーター(基本形 )+福祉職+社士試験めざす大学生(ようやく卒業見込) 年中へこたれ中 mail→ https://chikaka.jimdo.com/お問い合せ/


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