ゆとり




クドカンすごいなー 台詞が それに 主役じゃない人々が
すばらしい

かつて自分たちも シラケ世代とかくくられて
いつの時代も キャッチフレーズがつかわれるけどさ
たばねるって安易だよね
まあ こぼれた分は また別のキャッチで
商品化されるわけだけど

http://www.advertimes.com/20160613/article227060/



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Photograph by Mariusz Potocki, National Geographic













todays darling start
・吉本隆明さんが、身体の具合を悪くして、
 さまざまな不自由を体験していた時期に、
 「死んでしまいたいと思ったこともある」と、
 平静な調子で話してくれたことがあった。
 もともと、海水浴場での水難事故からはじまったことで、
 そこからだんだんと体調を崩していったので、
 どうしても元気だったじぶんと比べてしまうのだろう。
 いろんなことが思うにまかせないし、
 好きなものも食べられない、おもしろくもない、
 考えれば考えるほど暗い気持ちになっていったと言う。

 「こりゃぁもう、死んじまおうかと思ったんです。
  だけど、よくよく考えると、人間の死っていうのは、
  じぶん自身に属してないんですね」
 そう気づいたのだと、他人事のように教えてくれた。
 じぶんの死が、じぶんに属していない。
 はじめて聞いた考えだったし、うまく咀嚼できなかった。
 いかにもわかりやすい自殺の場合だと、
 周囲の人の被る迷惑やら、悲しみやらについては、
 あとのことは知らない、とばかりに実行するのだろうが、
 病人としてのじぶんという場合は、
 どこまで医療を続けてどこでやめるかということを、
 親族と医者が決めているのが実態だろう。
 どれだけ患者本人の意志があったとしても、
 周囲が、「生きててもらいたい」と考えたら、
 延命というだけの「治療」を続けることになる。
 しかも、そのことの決定については、
 親族の「じぶんとしてはどう考えるか?」の判断の他に、
 「不人情だと言われたくない」という判断も加わる。
 医師の考えもそれぞれかもしれないが、
 「少しでも命を永らえさせる」ことはできても、
 「もういいでしょう」と決める権利はないだろう。
 そうなると、本人も含め、誰も望んでないのに、
 「生きている」という状態が持続していくことになる。
 そういうものか、と話を聞いていて、ぼくは思った。

 そんな話を聞いてから、もう二十年近く経って、
 じぶんの問題として、死のことを考えるようになった。
 いまのぼくとしての考えも、あることはある。
 でも、それはまだ言わないほうがいいような気もする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにしろ、ぼくの望むのは「たのしい通夜」だからね~。



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by saku-saku-chika | 2016-06-14 03:33

日常 @イラストレーター(基本形 )+福祉職+社士試験めざす大学生(ようやく卒業見込) 年中へこたれ中 mail→ https://chikaka.jimdo.com/お問い合せ/


by saku-saku-chika