発火雨
2016年 04月 05日
はっかう と読むんだそうな
二十四節気の清明の頃に降る
しずかーな雨のこと ほうほう
ちなみに清明は 清浄明潔の略で
万物が汚れなく清らかで生き生きしているさま
あーごめんなさいね
ながくいきのびてますと
もう ほこりまみれシワくちゃシミがあちこちに
え 聞いてないって ですよね
・主観というのは、人間の数だけある。
「わたしは、こう見る」とか「わたしは、こう思う」は、
ほんとうはみんなのところにある。
ただ、みんながそれぞれの主観を、
そのまま口に出したら、差し障りのあることも出てくる。
そう思って、人は、主観をそのまま語らなくなる。
じぶんひとりの主観を語るよりも、
みんなの主観を調整したものを、
「客観」として受けいれて、
それを主観として語るようになるのである。
ようすを見て、正しそうなことを言う。
それを、じぶんの主観として言う。
こういうクセがついていってしまうのだ。
語らなくなっていくうちに、主観が減っていく。
つまり、感じたり思ったり考えたりしても、
どうせそのまま語らないのだから、まずは、
主観として感じることをやめておいて、
じっくりあたりを眺め回して、
見えてきた正しそうな考えに合わせようとする。
そういうことをしているうちに、
じぶんが感じたり思ったりする必要がない
‥‥と思うようになっていく。
人間の数だけある、はずの主観は、
ものすごく少なくなっていく。
正しそうなことや、迷惑にならなそうなこと、
りこうそうなこと、やさしそうなことを
探すことばかりしているから、
「わたしはなにを思えばいいんだ?」と、
すっかり主観を失って生きていくことになる。
有吉弘行さんや、蛭子能収さんや、
マツコ・デラックスさんを、テレビが必要とするのは、
彼らがいないと主観のない世界になってしまうからだ。
あなたもぼくも、ふだん、主観を窮屈に閉じこめている。
だが、主観をいつも見失わないということならできる。
おそらく、アートの役割は、そんなところにある。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
どれくらいナイスな主観を持てるかというのは、芸だよね。
by saku-saku-chika
| 2016-04-05 18:48
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