予報はずれたね

b0150018_17283077.jpg



いつかの「今日のダーリン」

・「元気いっぱい」という表現を、
 いつでもしていないと、
 元気じゃないということになって、
 なにやらネガティブな存在に数えられてしまう。
 ほんとは、元気いっぱいでもなく、
 特別にネガティブでもない状態がいちばん多いんだけど、
 ちょっと余計に「元気」っぽくふるまっていないと、
 「どうかしたの?」なんて思われたりしがちです。
 
 それに似ているのですが、
 「死」のことを話すのも、なかなか難しいです。
 ぼくは、だいぶん上手になってきていて、
 「死」のことを言っても、
 「なにかあったんですか?」などとは、
 あんまり訊かれないようにはなってきました。
 
 などと前置きをしつつ、年の終りにつくづく思います。
 今年も、たくさんの人が亡くなったなぁ、と。
 亡くなった方に話したいことについては、
 亡くなった方に直接話すほうがいいような気がします。
 これは、もしかしたら偏屈な考えなのかもしれませんが、
 ぼくは、追悼の文章だとかコメントだとか、
 できるかぎり逃げてきました。
 でも、亡くなった人に話しかけたいことや、
 聞いてあげたいことは、ずいぶん時間が経ってからも、
 けっこうたくさんあったりするものです。
 感傷的に言うのではなく、ほんとに対話がしたいのです。
 30年近くも時間が経っているのに、
 いまごろになって、亡くなった父と話しています。
 そういう意味では、今年亡くなった方たちとは、
 もっと先になって、いろんなことを話すと思います。

 その人が「いる」ということと、
 その人は「いない」ということのちがいは、
 たしかにあります。
 それがわかるのは、それなりの時間が過ぎてからです。
 
 もうじき、来年になります。
 今年亡くなった人たちにも、いい来年になるといいな。
 死んでからも心配させちゃ、もうしわけないですからね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
死んでからも話しかけられる人として、死にたいものだね。



・昨日、宋文洲さんのツイートで、
 「起業の本質は人のやりたくないことをやることだ。
  人の思い付かないことをやるのではない。」
 ということばを見つけました。
 ぼくは「すごいリアリズム。それは成功率も高そうだ。」
 と、軽いコメントをつけて紹介しました。
 
 宋文洲さんは、誤解されそうなことでも、
 (魚で言えば、あんまり小骨をとらずに)
 とんっとそのまま差し出すことが多いのですが、
 今回の2行も、ちょっとだけそういうところがあります。
 「人のやりたくないことをやる」のは、
 誰かがやらなきゃないなら、必ず需要があるから、
 たしかに「仕事になる」のです。
 それは、個人として「職にありつく」という仕事です。
 「職にありつく」は「食にありつく」です。
 
 でも、ただ「人のやりたくないことを」
 ガマンしてやっているだけでは、仕事は育ちません。
 ひとりの「食」が手に入れられて、それだけです。
 「こうすれば、もっとうまくやれる」とか、
 「こんなふうにしたら、イヤじゃない方法でやれる」と、
 工夫したり再編集したりすることが、
 「業」にさせてくれるのだと思います。

 ただ、最初の最初に、
 「じぶんひとりでも、汚れても疲れても」という覚悟が、
 あるかないかが、とても重要なのだということでしょう。
 若い人が「起業」を語るのを、
 宋さんはたくさん見てきたのでしょうね。
 「こんないいことを思いついたんです」という話を、
 いっぱい聞いてきたんでしょうね。
 でも、そこに「人がやってほしい」と思ってくれる
 「切実さ」があるのかどうか。
 それこそが「市場」の欲しているものでしょうから。
 問われているのはそっちでしょう、と言ってるのです。

 「人のやりたくないこと」を、
 「よろこんでどんどんやれる」ようにするのが事業かな。
 そういう目で、いろいろ振り返ってみています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」の見え見えの企業秘密は超労働集約型ってこと。
[PR]
by saku-saku-chika | 2013-01-22 17:29 | ナショジオ

日常 @イラストレーター(基本形 )+福祉職+社士試験めざす大学生(ようやく卒業見込) 年中へこたれ中 mail→ https://chikaka.jimdo.com/お問い合せ/


by saku-saku-chika